確認行為をすればするほどゲシュタルトが崩壊します
- 2019/08/06
- 21:35
ゲシュタルト崩壊という言葉があります。これはまとまりのある構造体から全体性が失われ、個々の構成要素として切り離して認識されてしまう知覚現象であり、代表的なものに文字のゲシュタルト崩壊などがあげられます。森という漢字をじっと見つめていると木林なんて見えてしまったり、公園という字がハム園なんて見えたりするあれです。他にもこの人こんな顔だったっけ?なんて感覚に陥るのもその一種だとか。
私はよく確認行為を行っている際、あまりに回数を繰り返しているとこのゲシュタルト崩壊に似た感覚をよく覚えます。例えば灰皿の煙草を確認している際、あまりにそれを見過ぎてしまう事で煙草という物の形がよく分からなくなったり、閉じているはずのジッポーを見続ける事でそれが本当に閉じている状態なのかわからなくなったりと、ゲシュタルト崩壊と呼ぶにはいささか乱暴ですが、見続ける事により想像が増して本来のそれとは違うものに見えてくる所はなんだか似ているなあと思わなくもないのです。
美術品を眺めてその良さを再確認するように、物を様々な角度から見て違った側面を発見するのは決して悪い事ではありません。ですが、歪曲されてそれが違う形に見えるのはさすがに問題だと思うのです。確認強迫に陥ると、意味もなく襲ってくる恐怖により、ありもしない事を想像する事が多々あります。煙草の火は消しただろうか→消してないかもしれない→消してないとどうなる→火事→家が全焼→どうしよう、なんてそうそう有り得もしない未来を想像しては漠然とした不安に苛まれるものです。もちろんそれが怖くて確認行為をするのですが、なんだかんだで一番の頼りとなる視覚情報があやふやになり、知覚までもが歪曲されるとそれこそ目も当てられません。煙草が消えているという状態は誰が見てもわかるものです。私の場合より確実にするため灰皿に水を張っており、常に消火しているため、煙草の先端はいつも黒くなっています。その状態が当たり前なのに、確認を繰り返せば繰り返すほど何故かそれさえもを疑いはじめてしまうから困ったものなのです。
ただでさえなのに、目で見えるものまで疑いはじめるとキリがありません。でも明らかに疑っている自分がいます。よく何度見ても同じだなんていいますが、私の場合限度を超えると見るたび違うものに見えてきます。なのでどちらかというとそういう意味で、しつこく何度も見てはいけないなと思っていたりするのです。
私はよく確認行為を行っている際、あまりに回数を繰り返しているとこのゲシュタルト崩壊に似た感覚をよく覚えます。例えば灰皿の煙草を確認している際、あまりにそれを見過ぎてしまう事で煙草という物の形がよく分からなくなったり、閉じているはずのジッポーを見続ける事でそれが本当に閉じている状態なのかわからなくなったりと、ゲシュタルト崩壊と呼ぶにはいささか乱暴ですが、見続ける事により想像が増して本来のそれとは違うものに見えてくる所はなんだか似ているなあと思わなくもないのです。
美術品を眺めてその良さを再確認するように、物を様々な角度から見て違った側面を発見するのは決して悪い事ではありません。ですが、歪曲されてそれが違う形に見えるのはさすがに問題だと思うのです。確認強迫に陥ると、意味もなく襲ってくる恐怖により、ありもしない事を想像する事が多々あります。煙草の火は消しただろうか→消してないかもしれない→消してないとどうなる→火事→家が全焼→どうしよう、なんてそうそう有り得もしない未来を想像しては漠然とした不安に苛まれるものです。もちろんそれが怖くて確認行為をするのですが、なんだかんだで一番の頼りとなる視覚情報があやふやになり、知覚までもが歪曲されるとそれこそ目も当てられません。煙草が消えているという状態は誰が見てもわかるものです。私の場合より確実にするため灰皿に水を張っており、常に消火しているため、煙草の先端はいつも黒くなっています。その状態が当たり前なのに、確認を繰り返せば繰り返すほど何故かそれさえもを疑いはじめてしまうから困ったものなのです。
ただでさえなのに、目で見えるものまで疑いはじめるとキリがありません。でも明らかに疑っている自分がいます。よく何度見ても同じだなんていいますが、私の場合限度を超えると見るたび違うものに見えてきます。なのでどちらかというとそういう意味で、しつこく何度も見てはいけないなと思っていたりするのです。

