怒りこそが唯一確認脅迫を和らげます
- 2019/04/04
- 22:36
間違った方向のアンガーマネジメントな話になりますが、私のなかで確認行為を半ば強制的にやめられる唯一無二の手段は怒りの感情を利用することです。まったくもってお勧め出来ない方法ですが、少なくとも私には過去の経験から踏まえてもかなり有効――けれどもやはりなんだか別の病を患ってしまいそうなので意図してそれを実行する気にはどうしてもなれないのです。
怒りという感情の多くは危険にさらされたという意識・認識に起因しているといわれています。傷つけられたと考えるほうが解りやすいかもしれません。そしてそれは肉体的だけでなく精神的にも、つまりは有形無形に関わらず自身または大切ななにかを危険にさらされた(傷つけられた)と感じた時に人は往々にして怒りという感情を覚えるのです。
原因なんてもちろんそれぞれですが、ことの大小に関わらず怒りという感情が起きてしまった際、人は多かれ少なかれ普段からは想像もつかない、らしからぬ行動をとってしまうものです。それをよく本性なんて言葉で現したりもしますが、私は怒りが頂点に達するとその相手はおろかそれにまつわるすべての事象が心底どうでもよくなるタイプの人間みたいなのです。
どうでもよくなるとはいっても自暴自棄になるのとは少し違います。どう表現していいのか難しいところですが、私の場合本来の自分を包み込んでいた部分、例えば笑顔だったり、例えば言葉使いだったり、そういった他人から悪く思われたくがないために行っていた所作や配慮をすべてとっぱらってしまい、ただただ目の前の事象を片づけることだけに専念する、まるで感情のないロボットのようになってしまうのです。
その行動の真意はひとことで言ってしまうと当てつけですかね。異論も反論も示さない代わりに無言の抵抗を徹底的に貫きます。もちろん常にそれだと色々問題がありますが、私の怒りが頂点へと達するのはあくまで存分に言い争った上での結果、これ以上はもうおたがい相容れることが出来ないと判断したうえでの結末であるため余計にタチが悪い気もしますけど……。
まあ、そういうのこそどうでもいいのです。怒りの真偽や正当性なんてここでは問題じゃないのです。本題はその怒りがどう確認行為と関わるのかというところですが――どうやらそこは私のしょうもないプライドの高さが功を奏しているみたいなのです。
おそらく完璧主義な性格も関わっているのだと思いますが、怒りが頂点に達した時、得てして私はいつも以上に他人に隙を見せたくないと強く思ってしまいます。気の緩みや油断を見せないのはもちろん、とにかくつけいる機会を絶対に与えないようにしてしまうのです。
つけいる機会、つけいられて困ること、それはいわずもがな強迫観念に追われている自分です。だからか私は本気で怒りが頂点に達した時、意図せず確認行為までもがピタリと止まってしまいます。厳密に言えば止まるというより強制的に自らの意志で止められるようになるのです。
そんな恥ずかしい姿を見られてもいいのか?おまえの怒りはその程度のものなのか?なんて自己暗示にでも掛かってしまったかのように、怒りが高まれば高まるほど確認脅迫がどんどん瑣末なことに思えていくのです。
やったね!これで確認脅迫ともおさらば、めでたしめでたし!なんて簡単にいくわけもなく、もしも怒りがそういつまでも持続するようなら、おそらく私は日々アドレナリンだだ漏れ、興奮しすぎてなにかしら別の病気を患ってしまうに違いありません。
当然内容にもよりますが、得てして怒りはそう長く持続するものじゃないのです。アンガーマネジメントで述べたようにそのピークは6秒、感情そのものの持続時間はおおよそ2時間なんて調査結果も出ていたりします。もちろんそれはあくまで持続時間(連続して続く時間)であり、継続時間(引き継がれる時間)はもう少し長いと思いますよ?けれど、それでもやっぱりせいぜい3日くらいじゃないでしょうか。それ以上怒りに満ちた時間を過ごせば本当に精神になんらかの支障を来すんじゃないかと思うのです。
まあ、詰まるところどんなに憤慨していてもすぐに 怒り<確認脅迫 になってしまい普段の生活に戻ってしまうのですが、ピンチはチャンスなんて言葉があるように、怒りにまかせて確認行為が軽減されている期間に私は、ここぞとばかりに普段やれない行為を試してみるのです。
随分と冷静じゃないかなんて言わないでくださいね。むしろ怒りも強迫性障害も長い付き合いだからこその成果だと思うんです。具体的には長くなるので割合しますが、いわゆる普段は怖くて出来ない認知行動療法、曝露反応妨害法なんてのをここぞとばかりに無意識に行っていると言えば少しは伝わるでしょうか。
曝露反応妨害法がなんたるかは別の機会に譲りますが、正直効果的なんだろうなと思いながらもひとりでは怖くてなかなか実行する勇気がでないものです。けれど怒りが頂点に達するとある意味気が大きくなっているのか、いつも以上に自分はなんでこんなくだらないことしているのだと馬鹿らしく思えてしまい、言うなれば自らがもってして荒治療をしてしまっているのです。その結果、気がつけば随分と確認作業が減っていたり、まったく思いつかなかった方法に変わっていたりと知らぬ間に大きな変化をもたらしてくれるのですが――さすがにゼロにはなりませんね。せいぜい5回の確認が3回になるって程度ですが、私にしてみればそれはそれでとても大きな変化なのです。
とまあ、長々と書いてはみたものの、だからといって怒りを無理に持続するのはどう考えても得策ではありません。もしかすると上手くいけば確認脅迫を振り払うきっかけくらいにはなるかもしれませんが、同時になにかとてつもなく大切な物を失ってしまうような気がしなくもないです。でもそう考えると、まさしく怒りを上手くコントロールしようとするアンガーマネジメントは有効なのかもしれませんね。ただそのために怒りを発生させなきゃいけないとなるとかなり本末転倒な気もしますが……。
怒るとどうでもよくなる
怒りという感情の多くは危険にさらされたという意識・認識に起因しているといわれています。傷つけられたと考えるほうが解りやすいかもしれません。そしてそれは肉体的だけでなく精神的にも、つまりは有形無形に関わらず自身または大切ななにかを危険にさらされた(傷つけられた)と感じた時に人は往々にして怒りという感情を覚えるのです。
原因なんてもちろんそれぞれですが、ことの大小に関わらず怒りという感情が起きてしまった際、人は多かれ少なかれ普段からは想像もつかない、らしからぬ行動をとってしまうものです。それをよく本性なんて言葉で現したりもしますが、私は怒りが頂点に達するとその相手はおろかそれにまつわるすべての事象が心底どうでもよくなるタイプの人間みたいなのです。
どうでもいい
どうでもよくなるとはいっても自暴自棄になるのとは少し違います。どう表現していいのか難しいところですが、私の場合本来の自分を包み込んでいた部分、例えば笑顔だったり、例えば言葉使いだったり、そういった他人から悪く思われたくがないために行っていた所作や配慮をすべてとっぱらってしまい、ただただ目の前の事象を片づけることだけに専念する、まるで感情のないロボットのようになってしまうのです。
その行動の真意はひとことで言ってしまうと当てつけですかね。異論も反論も示さない代わりに無言の抵抗を徹底的に貫きます。もちろん常にそれだと色々問題がありますが、私の怒りが頂点へと達するのはあくまで存分に言い争った上での結果、これ以上はもうおたがい相容れることが出来ないと判断したうえでの結末であるため余計にタチが悪い気もしますけど……。
まあ、そういうのこそどうでもいいのです。怒りの真偽や正当性なんてここでは問題じゃないのです。本題はその怒りがどう確認行為と関わるのかというところですが――どうやらそこは私のしょうもないプライドの高さが功を奏しているみたいなのです。
怒り>確認脅迫
おそらく完璧主義な性格も関わっているのだと思いますが、怒りが頂点に達した時、得てして私はいつも以上に他人に隙を見せたくないと強く思ってしまいます。気の緩みや油断を見せないのはもちろん、とにかくつけいる機会を絶対に与えないようにしてしまうのです。
つけいる機会、つけいられて困ること、それはいわずもがな強迫観念に追われている自分です。だからか私は本気で怒りが頂点に達した時、意図せず確認行為までもがピタリと止まってしまいます。厳密に言えば止まるというより強制的に自らの意志で止められるようになるのです。
そんな恥ずかしい姿を見られてもいいのか?おまえの怒りはその程度のものなのか?なんて自己暗示にでも掛かってしまったかのように、怒りが高まれば高まるほど確認脅迫がどんどん瑣末なことに思えていくのです。
怒り<確認脅迫
やったね!これで確認脅迫ともおさらば、めでたしめでたし!なんて簡単にいくわけもなく、もしも怒りがそういつまでも持続するようなら、おそらく私は日々アドレナリンだだ漏れ、興奮しすぎてなにかしら別の病気を患ってしまうに違いありません。
当然内容にもよりますが、得てして怒りはそう長く持続するものじゃないのです。アンガーマネジメントで述べたようにそのピークは6秒、感情そのものの持続時間はおおよそ2時間なんて調査結果も出ていたりします。もちろんそれはあくまで持続時間(連続して続く時間)であり、継続時間(引き継がれる時間)はもう少し長いと思いますよ?けれど、それでもやっぱりせいぜい3日くらいじゃないでしょうか。それ以上怒りに満ちた時間を過ごせば本当に精神になんらかの支障を来すんじゃないかと思うのです。
まあ、詰まるところどんなに憤慨していてもすぐに 怒り<確認脅迫 になってしまい普段の生活に戻ってしまうのですが、ピンチはチャンスなんて言葉があるように、怒りにまかせて確認行為が軽減されている期間に私は、ここぞとばかりに普段やれない行為を試してみるのです。
怒りにまかせて曝露反応妨害法
随分と冷静じゃないかなんて言わないでくださいね。むしろ怒りも強迫性障害も長い付き合いだからこその成果だと思うんです。具体的には長くなるので割合しますが、いわゆる普段は怖くて出来ない認知行動療法、曝露反応妨害法なんてのをここぞとばかりに無意識に行っていると言えば少しは伝わるでしょうか。
曝露反応妨害法がなんたるかは別の機会に譲りますが、正直効果的なんだろうなと思いながらもひとりでは怖くてなかなか実行する勇気がでないものです。けれど怒りが頂点に達するとある意味気が大きくなっているのか、いつも以上に自分はなんでこんなくだらないことしているのだと馬鹿らしく思えてしまい、言うなれば自らがもってして荒治療をしてしまっているのです。その結果、気がつけば随分と確認作業が減っていたり、まったく思いつかなかった方法に変わっていたりと知らぬ間に大きな変化をもたらしてくれるのですが――さすがにゼロにはなりませんね。せいぜい5回の確認が3回になるって程度ですが、私にしてみればそれはそれでとても大きな変化なのです。
とまあ、長々と書いてはみたものの、だからといって怒りを無理に持続するのはどう考えても得策ではありません。もしかすると上手くいけば確認脅迫を振り払うきっかけくらいにはなるかもしれませんが、同時になにかとてつもなく大切な物を失ってしまうような気がしなくもないです。でもそう考えると、まさしく怒りを上手くコントロールしようとするアンガーマネジメントは有効なのかもしれませんね。ただそのために怒りを発生させなきゃいけないとなるとかなり本末転倒な気もしますが……。

